公会堂アートショウ 2005
2005年
岩⼿県の歴史的建造物、岩⼿県公会堂の保存運動の⼀環としてスタートしたこのアートイベントは、岩⼿にゆかりの作家達が各部屋に⼀作家ずつ展⽰を⾏いビエンナーレー形式で三度開催された。アートの展覧会だけでく、ワールドミュージック・コンサート、パフォーマンスやダンス、アートオークション、講演会、アートカフェやアートショップ、出店やレストランなど多彩なプログラムを建物の内外で実施した。
第⼀回2005年8⽉12⽇から21⽇まで
参加作家9名:⽯川美奈⼦、岡⽥卓也、⽚桐宏典、ケイト・トムソン、佐藤⼀枝、本⽥健、本⽥恵美、百瀬寿、森進⼀
The Japan Times 8/24
アートと建築、岩手で出会う
ケイト・トムソン
古くなった建築を保存、改修して使い続けるという発想は、日本ではまだあまり馴染みのないものかもしれない。しかし、時に建物が、地域住民にとって忘れられない歴史の重みを持つことがあるのだ。
1927(昭和2)年、佐藤功一博士(日比谷公会堂設計者)の設計によって建造された岩手県公会堂は、アール・デコ様式の意匠を持つ建築であり、長らく岩手の文化的中心としての役割を果たしてきた。しかし、日本の多くの古くなった建造物の御多分に洩れず、1970年代に、より現代的な設備を誇る建物が林立するに従って、岩手県公会堂もしだいにその存在意義が薄くなっていった。盛岡市の中心という立地条件も加担し、公会堂の建物は再開発の恰好の標的となり、ついに2000年には岩手県により、使用を継続するには「危険を伴う」建造物と認定されることになった。
近代から現代建築への変遷をその意匠に残す、この建築の価値を重視した地元の建築家たちが自発的に調査、査定を行い、公会堂はまだ一般の使用に充分に耐えることが立証された。そして、公会堂の保存を目指す市民団体、公会堂県民フォーラムと連携してついに行政を説得し、歴史的建造物としての保存が決定されたのである。
しかし、この建物をいかにして活用し、確実に保存してゆけばよいのだろうか? フォーラムのメンバーの一人、彫刻家・片桐宏典は、自らに加え岩手を拠点に活動する8人のアーティストの賛助を得て(筆者もその一人だが)、一人の作家が公会堂の部屋を一つずつ使い、その場を行かしたインスタレーションを行う計画を提案した。岩手県民に、公会堂が持つ潜在的可能性を再評価してもらおうという試みである。作家たちもまた、これによって新しいアイデアを展開する機会、そして「作品に触れないでください」の表示がつきまとう、美術館の展示台に鎮座させるのとは違う表現を追求する機会に恵まれることになったのである。 この発想が結実したのが「岩手県公会堂アートショウ2005」であった。建物の文化的環境という要素と、岩手の文化的社会的風土の中で制作する現代アート作家の作品の、ジョイントステージを提供するという実験的なプロジェクトである。 参加作家のほとんどは、このアートと建築のコラボレーションというコンセプトに共鳴した。本田恵美は、訪れた人がアームチェアにゆったりと坐り、彼女の小さな抽象オブジェに触れて楽しめる「居間」を創り出した。オブジェには、公会堂の建物そのものにも似た、「人との触れ合い」という豊かな艶と趣がそっと備わることになった。
岡田卓也は一番広い部屋に200本の青竹を縦横に用い、来場者が抽象的構造物を縫って自在に探検できる、建築と場を融合させた有機的空間を創造した。佐藤一枝は未加工の建材を使って詩的空間を現出させ、記憶の内部の構造を呼び覚ます。筆者トムソンは建築学科の学生4人の協力を得て、英語、韓国語、アラビア語、日本語の新聞記事の切り抜きを一面に貼り付けた枠による、巨大迷路を創った。室内空間を国際的コンテクストの中に置いて、再構築しようという意図である。
4人の作家が地域の歴史を調査・探求した。本田健は、公会堂が一般市民の資金援助を受けて建立されたことを知り、「米」でできた家のシリーズを制作 ― 米は昔の代用通貨、資本単位でもある ― 廊下と階段に、この住まいと共同体のシンボルである作品の集落を創った。森眞一は公会堂の塔屋のセットに塔屋内部の現在を撮影した写真を組み込み、流れる水にその表面を「侵食」させることで、時の流れと、うつろい褪せてゆく記憶を捕えようとする。そして、石川美奈子は室内空間を縦横によぎる繊細な格子状の構造物の上に、公会堂に関する古い新聞記事を、透明な文字で丁寧に書写している。
一方、片桐宏典は、1928年、公会堂が昭和天皇5日間の岩手滞在で御在所となった折、天皇が泊まった特別室を使用、「敗北を抱きしめて」という音によるインスタレーションに挑戦した。第二次世界大戦終戦時の玉音放送が流れる周囲には、カンボジア語、中国語、韓国語、マレー語、インドネシア語、そして英語に翻訳された天皇の言葉が交差し、こだまする。もちろん、この作品は終戦後60年の8月15日、終戦記念日との関連を意識したものである。
アートショウ終了後、作品撤収の際、実際に作品が売れる可能性を意識した作家はほとんど居なかった。 これらの作品を理解し鑑賞するためには、この場所固有の雰囲気と文脈の中で観てもらう必要があったからだ。作品の中には、別の機会のために形を変えリサイクルできるものもあった。また、百瀬寿の作品や、他の作家の下絵や試作品 ― 通常、商業販売の画廊には出品されないようなもの ― は最終日のチャリティオークションで販売された。落札総額 180万円のうち30%が、作家たちによってアートショウの運営援助資金として寄付された。
公会堂脇の舗道などに設営された5軒のカフェは、作家と来場者が会話できるくつろぎの場を提供してくれた。アートはきちんと包装された「答」や「結論」などではなく、むしろ開かれた議論のための触媒なのだ、ということを示してくれた場 ― この場で展開された議論は、アートと建物の双方によって喚起された歴史、社会、文化的問題から、作家と社会によるコラボレーションの可能性について、そして取り壊しの危機に瀕した建築をいかに修復し、柔軟な使い方ができるように現代的に改築するか、という問題にまで及んだのである。
公会堂アートショウを恒例のイベントにしたいという願望を表明した人も少なくなかった。みな、より遠方の人々に向けて、地域のイメージやアピール性を高めるための仕掛けとしてアートショウを発展できないか、という可能性に胸を踊らせていた。来場者の一人である医学研究者は私にこう語った。「公会堂アートショウは、個々の努力を全体の中に統合することによって、いかに一つの豊穣な作品を創造し得るか、しかも、観る者をも巻き込んだ形の芸術のコラボレーションに出来るか、という試みの素晴らしい実例だ。」
また、ライブ演奏、ダンスと映像のパフォーマンスなどの多彩なプログラムも、4,600人を越える来場者を呼ぶのに貢献したと言えるだろう。訪れた人の多くは、これまでは現代アートに興味を覚えたことなど一度もなかった、と洩らしているのだ。ある80歳の来場者は次のように述べている。「現代芸術というのは、普通は難しくてよく解らないものだ。でも、ここでダンスを観て、音楽を聴いたとき、現代アートも実はこれと全く同じものなのだと分かったのだ。過ぎ去ってしまった歴史の中から、何か新しいものを創り出すときの、あの無上の喜びと。」