Essay

Essay by HironoriKatagiri

「ケンブリッジ紀行」、岩手日英協会、会報寄稿文、2001

ケンブリッジ紀行 ー2001年初夏ー

わたしは三つの風景をいつも持ち歩く。太平洋に続く唐桑の光る海、堅く乾いた岩盤の上に密生するリンダブルンの松林、そして、絨毯のようなヒース広がるラムスデンの丘。時を経て幾重にも折り畳まれたその印象がいつしか心の奥に絹のひだとなって脈打ち、未だ見ぬ風景を、柔らかく、でも狡猾にその中に取り込んでくれる。そこには甘美な妖精がいるわけではない、ましてや格調高い亡霊の出番もそこにはない。異国という意識は消えて、かといって故郷である筈も無い。そこに閉じこめられた、循環する季節だけが記憶の中で確実に時を刻んでいる。

 絵に描いたような田園風景に浮かぶこの街は不思議と汚濁というものを感じさせない。平坦な大地の上に鬱蒼と茂る老齢の木々。限りなく透明な水のせせらぎ。石畳の上に響く若者の弾む声。どこまでも広がるビロードのような芝。その上でスローモーションのように動く真っ白なクリケットのユニフォーム群。煉瓦造りの古い家を覆い尽くす蔦の葉、並び建つ真新しいコンクリート製の校舎の壁。そびえ立つ中世の尖塔のすみずみに響き渡る青い歌声と、そして、手の届くところすべてにゆきわたるような、心地よい品の良さ。ここで目にするすべてが、この国の文化的規範を永きにわたって先導してきた誇りに満ち満ちているようだ。梅雨を持たないこの国の夏の中では、とりわけ強く意識する。

「ここは800年の誇り高き歴史と伝統のケンブリッジ、でも、それと同時に、とても柔軟で現代的なところもあるのよ。えーと、あなた、赤でよかったわよね。」と、順に我々のグラスにワインを注ぎ込んだあと、ソファに深々と腰掛け、足を組んでからおもむろにジュリアは言った。私は、ささやかな、でも熱気に溢れた講演会を無事終えた直後の、興奮半ば冷めやらねまま、ワインを一気に流し込んで、「たしかにジュリア、あなたの言う通りかも知れない。だいたい、あのマリリン・モンローがチャーチル・カレッジにあったなんて思いもしなかった!アンディ・ウォーホールの8枚組、しかもそれがフェローのダイニングルームのど真ん中、真正面に飾ってあるんだから気が利いてる!ぼくはとっても好きですよ。」そう言って笑った。講演会場のビヴァン・ルームから、彼女のレジデンスに行く途中、ここで経済学を教えている原さんが、こっちこっち、うちにはモンローがあるよと子どもみたいにうれしそうにわれわれに見せてくれたのを思い出しながら。アンディ・ウォーホールの、鮮烈な原色で刷られた8枚組の大きなこの版画は、古めかしい晩餐室を見事に完全支配していた。「そうなんです、ぼくはあそこで仲間たちと食事をするのがとても楽しみで仕方ないんですよ!」すかさず原さんがうれしそうに言った。隣のケイトも向かいに座っている岩沢夫婦も、みんな可笑しそうに笑った。
 アートと言えば、カレッジ正面入口の脇にあるアンソニー・カロ卿の巨大な鉄製の作品も物議を醸している。それはカロが80年代に作った作品で、自ら作品の選定と設置場所を決め、カレッジに貸与したもののうちの代表作である。彼特有の工業製品をモチーフにしたシンプルな部品のようなオブジェがいくつかテーブルの上に配置された作品である。高さ3m総重量30トンは下らないだろう。しかも全面、真っ茶色に錆びている。ちなみにチャーチル・カレッジは「科学と芸術の総合」というのが学校のモットーであり、その中でも現在、数学と科学が7割を占め、特にエンジニアリングの学生が圧倒的に多い。当然、金属の腐食に関するエキスパートも居て、あれは何とかならないのかと盛んに言っているらしい。作品のエア・ダクトを連想させる形などは特に芸術作品らしくない、あんなものみたくないから撤去して欲しいとまで、カレッジ近隣の住人たちからの申し入れがあったくらいだ。先ほど私の講演会でも、学生からの最初の質問は、あのカロの作品をどう思うかについてだった。
 ところで、チャーチル・カレッジには「ハンギング・コミッティ」というのがある。当カレッジの学生と教員など主に学内関係者だけで構成されるこの委員会は、カレッジにおけるすべてのアート活動を自律的に決定している。展覧会の企画やコレクションの選定、その設置場所などすべてを。カロの作品はこの委員会でも、いまや意見はまっぷたつに分かれ、このところ毎回議論の対象になる、なんでみんなあの作品の良さがちっとも分からないのかしらとその委員になっているジュリアはぷんぷんとしていた。

ここに着いてからちょうど一週間が経つ。エジンバラでバンを借り、作品を詰め込み、ジミーとケイトとわたしの三人が一日がかりでドライブしてやって来た。到着翌日早々から、これも一日がかりで、会場のジョック・コルヴィル・ホールに彫刻やドローイング作品を20点ほど並べ、夕方までに展覧会の体裁をどうにか整えた。このホールはチャーチル関係の文献を保管しているアーカイブ・センターと図書館と同じ建物の中にある。向かいに大きく茂っている二本の木はチャーチルが植えたんですよとセンターの主任学芸員のアラン・パックウッド氏が教えてくれた。彼は今回の私の世話役でもある。
 6月1日金曜日のオープニング当日、会場に並んだ作品をなんとなく眺めながら、一息ついてのんびりしてたらあっという間に6時、もうすぐパーティが始まる。慌ててケイトと交替して、ゲストルームに戻り急いでシャワーを浴びて着替え、会場に引き返すともう日本大使館の寒川一等書記官が来ていた。グレート・ブリテン・ササカワ財団のマイク・バレット氏とマリアテレーズ夫人も理事長を連れて来て居た。ジャパン・フェスティバル事務局長のクリストファー・パービス氏も。彼らと会うのも去年以来、久しぶりだ。ほかにも大学関係者が続々と集まり、学長のジョン・ボイド卿とジュリア夫人も間もなく現れた。ジョンは6ヶ月前に脳溢血で倒れ、左半身の麻痺がまだ残っているとジュリアから聞いていたのだが、そうはとても見えない。6年前、東京の英国大使館でのさよならパーティの席上、自らバイオリンを弾いていたときから、全然変わってないように見える。最近、大英博物館の理事長に就任して仕事が増えたと聞いた。あしたからのアトランタ国際会議に本当はひとりで行く予定だったんだけど、まだちょっと心配だから、私が一緒に行って靴のひもを結んであげるのよとジュリアが言った。
 ジョン、クリストファーと順番に挨拶に立ち、ジャパン・フェスティバルのハイドパークでのオープニングには25万人も来て大盛況だったという話をしている間、国際交流基金のロンドン支局長の分田氏が来たのが見えた。次に寒川氏の挨拶のあと、私が今回のスポンサーとチャーチル・カレッジに感謝の言葉を述べて、挨拶が一通り終わり、拍手で歓談に入る。私も、魅力的なチリの留学生2人との話がやっと暖まってきた頃、突然、メイン・ホールでディナーだから移動しなさいと、みな会場を追い出される。途中、スタッフ・ルームのソファで軽くポートワインかブランデーを引っかけた後、総勢40人ほどが広いホールのはじに用意された大きな一枚の細長いテーブルに二列に向かい合うようにして並び、私とケイトはジョンにこっちだこっちだと手招きされて一緒に座る。ゴング(銅鑼)の音と共に彼の食前の祈りが広大なホールに響き渡り、着席してがやがやと一斉に会食が始まった。
 メインコースに入ったあたりだったか、ケイトが隣のジョンと話し込んでいる間、私は右隣のギリシャ人の政治学者と、日本の伝統的感性が西欧的モダニズムをなぜいまだに消化しかねているのかを熱っぽく論じ合っていた。向かいの席には副学長で建築家のポール・リッチンスとクリストファーが日本のバブルについて話をしている。クリストファーは日本の金融機関にしばらく就労した経験があるのでその手の話題はとても詳しい。ポールは来週作品のプレゼンテーションのために東京にまた行くと言っていたので、結構お互い興味が合うらしい。
 一時間半ほどで、またゴングが鳴った。あっという間だったが、その音を合図に会食は終了となり、みなその場をさっさと引き上げて、やっと暗くなりかけてきた外に消えて行った。たぶん、いつものように。

7日木曜日の夕方、原さんが私を迎えに来た。5時きっかりに自分で会場を閉めたあと、隣町のグランチェスターにある、有名なティー・ガーデンに行ってみましょうと彼が誘ってくれていた。車で10分もかからない。他のカレッジを幾つか通り過ぎると、もうグランチェスターだった。原さんが、先日うちで会った版画家の志村氏のアトリエが、道路の反対側だから行ってみましょうと、広い庭のある、テラスの着いた洒落たこぎれいな家のドアをどんどんたたいてみたが、うんともすんとも返事がない。居ませんね。じゃあこっちはと、反対側に回って、二階にいるのもぼくの友だちなんです、彼女未婚の母なんです、と言いながら彼はまたどんどんと扉をたたいたが、こちらも返事がない。まあ今日は誰もいませんね、残念残念といいながらティーガーデンの方へ歩き始めると、後ろから柔らかな髪の女性が走って追いかけてきた。
 「ごめんなさい、いまちょうど電話中だったのよ。」とイタリア人の経済学者は息を切らしながら、そう我々に謝った。結局、彼女の二階の部屋で、眠れなくなりそうな強いエスプレッソをたっぷりごちそうになった。私たち3人が、女性と男性、どちらが火星人で、どちらが金星人かという議論を延々としている間、「長靴下のピッピ」そっくりの、彼女の6歳になる娘が、ソファーの上できゃーきゃー笑いながら、ぼくらの回りでとても楽しそうにぴょんぴょんジャンプしている。母親譲りのくりくりの天然パーマのブロンドの髪に、白いだぼだぼのワンピースを着ている。わたしが、どこの子も同じだなと思っていたら、ローマに明日帰るという彼女のお母さんが、もうやめなさいと、にこにこしながらあきらめたように「ピッピ」にイタリア語で何度も言っている。
 「グランチェスターのティー・ガーデン」。みんなはそう呼んでいるらしい。本当は「The Orchard」と言う。これをイングリッシュ・ガーデンと呼ぶにはおこがましい。どう見ても、見るからに、ただの「庭」である。花があったかどうかすら記憶にない。お茶を出すキッチンはバラック倉庫を改造したかのようなシンプルさだ。でも、この「庭」を見渡すと、こんもりした木々の下に、座り心地のとても良さそうな緑色のキャンバス地の長いすが、いくつもグループになって置いてある。今は人っ子ひとりいない。その昔、詩人ルパート・ブルックがここを愛し、ヴァージニア・ウルフも来たらしい、ヴィトゲンシュタインも座っていたらしい。訪問客リストには、他にも大勢、私の知らない有名人がずらりと名を連ねている。その昔、彼らがビクトリア調の白いドレスと黒いシルクハットでここに来たとしても、帽子と靴をかたわらに脱ぎすてて、深々と座りたくなる、そんな場所だ。イギリスには蚊が居ないし、たぶん夏の休暇の時期や週末は大勢の学生や観光客で混み合うのだろう。
 そんなティー・ガーデンをあとにして、我々はいったん学校の宿舎に戻り、彼の部屋で、私の持ってきたインスタント・ラーメンをメイン・ディッシュにして、ワインとビールとポートを飲み合わせながら、楽しい夜を過ごした。

 「...でも、ここはホームレスの数がとても多いのよ。」マンディが私たちに向かって唐突に言った。「そうさ、家の値段だってロンドン並みか、へたすりゃ、それ以上だよ。」夫のリチャードが付け足すように言った。そういえば原さんも「ケンブリッジの昨年の物価上昇率は14%です。観光客の比率も居住者の13倍なのです」と学者っぽく言っていた。ケンブリッジ在住25年という志村氏も「ここは高くてまずいレストランしかないよ」と断言していた。とにかく、われわれは、いま川向こうにキングス・カレッジの大ホールを見渡すタイ料理の店で、小さいけれども、脂ぎった客でぎっしり詰まったこの店の、はじっこのテーブルでマンディたちと膝をぶつけ合いながら、スターターのエビとごまのトーストかなんかをぽりぽりと食べながらワインを飲みはじめたところだ。ニュー・キャッスル大学時代にケイトと同級生だった彼女は、いま隣町に住んでいて、結婚するまでは「イースタン・アーツ」のコーディネーターをしばらく勤めていた。
 イギリスの「アーツ・カウンシル」の下部組織ともいえるこの半民間NPO組織は、ほぼ各州ごとにそれぞれあって、その一つの「イースタン・アーツ」はケンブリッジを中心に様々なアート・イベントやプロジェクトを企画運営している。チャーチル・カレッジの校内にある様々なアーツ・コレクションのオルガナイズにも彼女は関わっている。アーティストとパブリックを結ぶこういった組織の存在は、とても西洋的発想の社会的産物だと私は思っている。民主主義的な合意形成を必要最低限の手続きとして、経済活動の一環としてのアート・プロモーションを行うものだからだ。そこでアートは彼らの手によって、社会の政治経済と同等の立場で表舞台に常に登場し、正面からライトに照らされて、その真価を問われる。アートの活動も社会的経済活動の機軸と常に重なり合わなければならない。「学校・学問」も同様に、大きな螺旋形を描きながら「社会」との関係が出来上がっている。ここには明らかに英国型にデザインされている「文化」がある。
 
 私がはじめてマンディと会ったのは、10年前の我々の結婚式の時、ケイトのご指名でベスト・ウーマン(証人)となった彼女が、はるばるエジンバラまでやってきた時だった。光り輝くブロンドの髪をショートにまとめ、大きな目に鼻筋の通った顔は紛れもない典型的な英国人女性に見えた。そのときひさびさに集まったケイトの同級生の間でも、学校の機械や備品をすぐ壊してしまうことで学校中に有名な、昔はとても不器用な彼女の昔話に花が咲いたが、そんな彼女の制作に対する意欲は人一倍熱心だったらしい。でも、卒業後、なぜか作家になることを選ばず、企画の方に進み、イースタン・アーツで活躍している、と思っていたら、いつのまにか結婚して、普通の専業主婦になり、毎日、夫と子どもの面倒を見てるらしい、ということをケイトから最近聞いた。いまは自分の子どもたちより、先妻の17歳になる女の子にとっても手を焼いている、私のことを、ままははのおにばばあ!なんていうのよと、まるで人ごとみたいに言ってにこにこ笑っていたのがとても印象的だった。


 さて、私のJAPAN FESTIVAL 2001プロジェクトは、このあと、スコットランドのスコティッシュ・スカルプチャー・ワークショップで、7月10日から3週間のアーティスト・イン・レジデンス、そして8月4日から9月10日までアバディーンのピーコック・ビジュアル・アーツでの展覧会と続きます。機会があればまたどこかでご報告したいと思います。
 なお、この場を借りて、この一連のプロジェクトの実現ために協賛を戴いた英国内の数々の財団および国際交流基金に厚く御礼を申し上げます。また、今回の巡回展の作品図録製作にあたって、差し迫ってからのエッセイ執筆を快く引き受けてくれた平沢広君と徹夜でその困難な翻訳作業を成し遂げてくれた山本勢津子女史に、そして、時間を惜しまずに素晴らしい写真を丁寧に撮ってくれた森眞一君に、心から愛を込めて深く感謝の念を表します。本当にありがとう!

(岩手日英協会会報2001年10月号掲載)