Essay

Essay by HironoriKatagiri

現代のモニュメントとは何かー八戸市類家南土地区画整理事業竣工記念碑を製作してー


組合区画整理No.51, 1996年7月号

彫刻家 片桐 宏典

芸術家は謎に包まれている。
 ロダンにせよ、ミケランジェロにせよ、ピカソにせよ、ゴッホにせよ、岡本太郎にせよ、芸術家たちは、一心不乱に仕事をしているかと思えば、その実、何を考えているのか傍から見ると見当もつかない。話をしていても、機嫌がよければ天使のようだが、突然何を言い出すか、訳も分からず不気味であるらしい。
 美術館にいってみても、現代美術ときたら、問題作品うんぬんという以前に、一見したところで意味不明、大体こんな子供だましのようなものに美術品たる価値をどのように見い出せばよいのか、疲労困狽してしまう事が、私にもよく起こる。なにしろ芸術家という人種は、だいたいが変人奇行で、怪異なるものを好み、頑固で大酒飲みで女好きであるという歴史的定評がある。この私ですら会う人ごとに、まじまじと私のきたない顔を喰い入るように眺められてから、あなたたち芸術家は好きなことばかりをしていて、この不景気によく食べていけますねという質問を頻繁に受けるのだ。余計なお世話だと言い返してやりたいところだが、一般社会常識からみて、例外的な人生を送る運命のひとりとしては、むしろ、褒め言葉として、心地よくその言葉を聞くことにしている。

社会と個人
 思うに芸術家に対する人間的評価とは、良い意味での、見る側の自分自身の理想の投影という裏返しの期待を込めているのだろう。それに人間の精神性の高度な発現のために、心理状態を最も自然の状態に近づければ近づけるほど、狂気が見え隠れするのは至極当然の成り行きかもしれない。人間の社会性という面から考慮するなら、確かに芸術家は、多分に非社会的な動物であるかもしれない。と同時に、社会的にそれを暗黙のうちに許されている特権階級であるといえないこともない。
 明治維新以来、われわれに最も強く影響を与えてきた近代西洋の芸術家諸侯は、そのキリスト教的な精神昇華型の思想背景のもと、特に、美術においては、個性における人間性の表現を追及していた。作品に反映してくる芸術的独自性とは、その個人の心理世界の結晶、氷山の一角である。だから、良い作品を生み出すには常に自分の精神世界を出来るだけ豊かに拡げ、自分自身というものを深く掘り下げていかなければいけない。そこで、彼等は社会的言動挙行を意識的にシフトしていたきらいがある。恋に狂い、酒に溺れ、人生に酔い、自分自身を社会から剥離していくことで、人間性の根源的で健全な生の姿を掴み獲ろうとしていたのだろう。彼等にとってみれば、近代国家社会という、産業革命を武器にした恐るべき怪物は、愛する人間性の最大の迫害者、暴君という存在以外のなにものでもなかった。そこでの個人と社会の構図とは、ぶつかりあう鮮烈な白と黒、または水と油のようなものであったのだろう。
 だが一方で、作家が「個」に埋没していけばいくほど、逆説的に生まれてくる作品の中には、芸術家の生きた時代の社会性が露骨に読み取れるのだ。経済構造の変化とその社会的圧力による家族生活の変容や、歴史の中に綿々と培われる紛れもない伝統と文化、民族性などが…
 たとえば、ここにイタリアのボッティチェリの描いた「ヴィーナス誕生」がある。この作品はルネッサンス期の紛れもない名画の一つとして数えられる。美の女神たちに祝福されながら、初々しく貝殻から生まれ出るヴィーナスの凛とした顔立ちは、それ以前のイタリア絵画の中の満々たる肉感の女性を感じない、近代的な知的美人である。絵画の中にも壮快な風さえ感じる事が出来る。しかし、その麗しきヴィーナスの面影は同時に、当時のイタリアの勃興する産業社会の煤煙に蝕まれ始めた、腺病質の蒼白な上流階級の女性のリアルな姿でもある。作品上に読み取れるのは、社会の産業構造の革命的変化の中で台頭してきたメディチ家という新しい権力者階級と、それに伴う社会的美意識の変化である。メディチ家は(当時の現代美術の)強力なパトロンであり、ミケランジェロなどの庇護者としても有名である。ボッティチェリは、高い芸術的感性と審美眼に支えられながらも、この神話的題材の絵を通じ、われわれに新しい近代社会の到来とその両面性を告げている。

沈黙する彫刻
 さて、日本が西洋文明の爆発的影響のもとに晒されていたのがだいたい100年前。世界経済の動向と共に、日本がいわゆる純日本風の都市形態から変化してきて、将来の都市形態はどうなるのか私には予測もつかない。日本の近代都市の街並は、どこも似たり寄ったりで、建物のスタイルにしても、隣同士ばらばらで一本の通りとしてすら地域性が感じられるものは残念ながら稀である。70年代から80年代にかけて、日本各地で熱を帯びたように公共彫刻事業が爆発的に広がっていく。各都道府県のかなり広い範囲で彫刻公園をはじめ、道路沿いや空地の中にと、多数の彫刻群が設置されているのを今ではよく見かけるようになった。
 現代にあっては、公共地への芸術作品の設置は、都市や市街地のための景観形成というケースが多い。電柱の立ち並ぶ国道なり、県道沿いに、そして、観光の拠点となる公園などにおいて、微力ながら、屋外に設置された彫刻の数々がトータルな雰囲気造りに一役買っている。味気ない、単調で喧騒な街の雰囲気に花を添えるが如く、具象的、抽象的なさまざまな個性的な表現が、にぎやかに絢爛と咲き誇っているかのようだ。
 しかし、その表面的な饒舌さとは裏腹に、むしろ、彫刻たちはみな、明るい闇の奥にひっそりと埋没しているかのようだと感ずるのは私だけだろうか。その明快な形をもった楽しい抽象的な作品にせよ、分かりやすく親しみやすい筈の子供や乙女の像にしても、どの作品をみても。石や鉄はしゃべらない。沈黙したままだ。

現代という時期
 現代社会に生きるわれわれのまわりには、テレビやビデオ、コンピューターのインターネットに至るまで、いまや、眼に飛び込んでくる情報量は天文学的数値になっている。ミケランジェロやダ・ヴィンチの時代には、とてもとても、夢想だにしなかった段階にわれわれは突入している。美術作品自体には、極端に大きな変化はないにしても、100年前にロダンが、ズタ袋に入ったような裸のバルザック像をつくった時に人々に与えた社会的衝撃を、もはや、ひとつの彫刻が持ち得るとは、もう考えられない(あらためて誤解のないように断わっておくが、それはあくまでも、作品の芸術的完成度の差というより、人々の持つ日常的な視覚体験の広がりによって、美術作品の社会的な立場が詭弱になってきたためである)
 そういう意味では、現代における多くの個性的といわれる、景観形成という目的で公共地に設置されている彫刻作品の多くが、栄養失調に陥っているのが現状ではないだろうか。一過性でない持続する表現。近代社会において忘れがちであった美術の本来の力、すなわち社会と美術が結び付いたときに発生する普遍的な力。パブリックアートについて考えるとき、忘れてはならない美術の根源的な性質がある。

モニュメント
 社会的な彫刻作品、いわば記念碑などのモニュメントとしては、日本でも古来から伝統的に、事業完成の銘文を刻んだ石碑や、事業の完遂に貢献した歴史に残るべき個人を顕彰して銅像を建てたりしてきた。公共的事業は汎社会的な利益と来たるべき未来への投資のために行われる。一人の優れた情熱的先導者、統率者がいたにせよ、その他大勢の人間の協力なくしてはどんな事業も完結しない。社会的事業の記念碑とは、事業の歴史的事実の記録であると同時に、まさにその時代の社会と人間性の象徴でもある。銘を刻んだだけの石碑であっても、そのたたずまいや、すがたかたちから、心理的に汲みとられるメッセージは多少にかかわらず、否応無しに後世の人間に確実に伝えられ、評価の対象となることになる。記念碑制作における社会的なテーマ性、そして、不可欠な高い芸術性、真のモニュメント性の獲得という事からいうならば、もっと積極的に、記念碑制作に芸術家、彫刻家を使うべきだろう。また、そこにこそ彫刻の本来の意味と使命があるのだから。
 特に土地区画整理事業のような、その地域すべてを巻き込む様な大規模で長期に渡る事業の場合、記念碑の意味合いが一層重みを増してくる。昨今、現代的な彫刻作品を使った竣工記念碑が建てられるようになってきた事は、非常に評価されるしかるべきだ。私自身今回、八戸市類家南土地区画整理事業の竣工記念モニュメントを制作するなかで、あらためて今の美術の在り方の問題を、非常に強く感じた次第である。

青森県八戸市類家南土地区画整理事業について
 さて、区画整理事業が今回完了した類家南地区は、青森県八戸市の南東部に位置する。また、以前、この一帯は「類家田んぼ」として広く知られていた。太平洋に注ぐ新井田川の右岸、原野、畑などの入り混じったこの地域は、大正時代に入ってから大規模な耕地整理事業が行われ、昭和28年に完成した時の総水田面積は、在来の水田を含めると340町歩以上に及ぶ。取水のための用水路は、逆サイホン式の4箇所を含め、全長7�Hにも及ぶ。しかし、昭和29年3月末日、事業完了とともに申請した換地処分が認可されたものの、耕地整理組合の組合員から不服意義申し立てが出されたため、翌年昭和30年3月に、認可が取り消されてしまった。ここから、いわゆる「類家田圃紛争」が起こり11年間に渡り、昭和41年まで解決はみられなかった。*
 その間、八戸市は大きく発展を遂げ、この類家地区は八戸市副都心として発展すべき地域となっていた。なかでも類家田圃の西部から北部にかけて宅地化が進み、既に市街地が雑然と形成され、都市化の波はこの地域一帯に押し寄せていたのである。類家北地区は昭和57年3月に、そして類家中央地区は昭和58年7月にそれぞれ、土地区画整理事業を完了している。類家南地区は、組合が認可され新たに土地区画整理事業がスタートしたのが、昭和60年。それから、工事の完了まで約10年間かかり、平成7年11月13日竣工式を迎えた。現在では、耕作地の面影は何処にも見当たらない。整然ととした市街地として生まれ変わっている。
*参考文献 「類家田圃小誌;土地に刻まれた歴史」
田名部清一著

竣工記念モニュメントについて
 計画地内の高架線下の一部を「みどりと彫刻のふれあい散歩道」として新たに整備した。そこには、青森県南地方の代表的な民族芸能である「えんぶり」の像や「堤川土偶像」など、全部で8点のブロンズ像が設置され、細長い公園緑地となっている。私はそこに設置される竣工記念碑の制作を依頼された際、区画整理事業に関わる夥しい人間の社会と歴史を表現しようと思い至った。最終的に、作品は円のシンプルな形に人の「和」を象徴して、素材の南アフリカ産黒御影の持ち味を生かし、人工的な形と自然の肌を組みあわせ、大きな台座の上に乗せることにした。彫刻の外側の部分は黒御影石の荒々しい割れ肌を大胆に使い、内側は、真円に精緻に削り出されたエッジが捻れることで曲面が生み出される。磨き上げられた黒い光沢の内側の面と、外側の割れ肌の対照的な組み合わせにより、自然と、秩序統合に向かう意志とを表現したつもりである。
 台座には正面に八戸市長の自署で大きく「福耕治拓」の銘があり、右に地図、左に事蹟、後ろに組合員役職者施工者名がそれぞれ刻まれている。上から下まですべて、南アフリカ産の同種の黒御影石を使用した。また、モニュメントの真ん中のくり抜いた部分は、そのまま記念碑の脇に方位盤として置かれている。結果的に、公園の中でブロンズ像群と石の記念碑が対照的な役割で、バランスの良い組み合わせになったと思う。
 現在では、隣接する団地や住宅などから、毎日多くの人が気軽に散歩や余暇を過ごしに訪れたり、たくさんの子供たちが元気に、彫刻によじ登り、走り回っている。

階上町ふるさとにぎわい広場
 類家南地区の記念碑制作とは対照的な、広場における彫刻による景観形成の例として、最後にもう一つ私の制作した作品「ホワイト・リーフ(白き岩礁)」を紹介しようと思う。この記念碑のある類家地区から車で約15分、国道45号線を南下すると、「道の駅」に指定された階上町の「ふるさとにぎわい広場」がある。広場は噴水を中心に石彫群、その廻りを取り囲むように、生産物直売所、観光物産館、レストランなどの建築が立ち並ぶ。
 全国で道の駅として、国道沿線に施設が次々と建設されている。私も制作前にいくつか見て回ったが、どれも駐車場のスペース確保のためか、立派な建物があるにもかかわらず、敷地内の施設全体として雰囲気をもつに至る例は僅少で、彫刻がたとえ置かれていても、看板のようで孤立しているものが多かったと記憶している。
「ふるさとにぎわい広場」は、その良好な立地条件を生かし、施設の個性とデザイン的シンボル性を求めた。そして、彫刻を広場の演出装置として位置付けた。作品「ホワイト・リーフ(白き岩礁)」は、穏やかな北三陸海岸のイメージを再現するために、彫刻は21個の大きな御影石の集合体として、中央の噴水と建物の間の空間にひろがる。石材は岩手県姫神産の白御影石を全部で約140t程度使用した。各々の石のブロックはノミで荒く仕上げ、形を整え、要所ゝにはベンチとして機能するものを置き、また、いくつかのオブジェを配置して、人々が歩き回る中で「かたち」と「ストーリー」の発見があるように演出を工夫した。
 
最後に
 風景が変わってきている。
 バブルの荒波を越え、情報ハイウエイが敷かれ始め、産業構造の変革期に突入した今でも、都市空間から農山村漁村まで、日本の風景は、相変わらず、「経済効率」という目に見えない病魔に犯され続けている。
 その中で、カンフル剤だけを打ち続けることが、病状を改善しないことはもう分かってきた筈だ。そして、「安全性」を追求することは、物理的にも心理的にも人間が生きていく上で当然の権利である。
 社会も、彫刻家自身も、「現代の風景」を創り上げていく可能性と責任とを十二分に認識しなければならない。「環境づくり」の中での「芸術」の取り扱いが単なる「付加価値」という考え方は、もはや、危険であるとさえいえるだろう。改めて我々の歴史を根気良く検証しながら、未来の価値を睨みつける姿勢と力が必要だと私は思うのだ。淀むことのない歴史の流れの中で、私の眼前の「現風景」は、確実に次の世代の「原風景」となっていく。
  
片桐宏典
1958年宮城県気仙沼生まれ。岩手県岩手町在住。
宮城教育大学美術科卒業後、渡欧。オーストリア、スコットランドでの制作活動を中心にヨーロッパ各地での公共芸術プロジェクトに参加。1988年から日本各地でもさまざまなプロジェクトを行っている。
スライド説明;
1 類家南地区「みどりと彫刻のふれあい散歩道」
2 類家南土地区画整理事業竣工記念碑
3 ブロンズ像
4 竣工記念碑本体1
5 竣工記念碑本体2
6 階上町ふるさとにぎわい広場全景
7 広場彫刻「ホワイト・リーフ」
8 彫刻の一部;ベンチ 1
9 彫刻の一部;ベンチ 2
10 彫刻の一部;オブジェ