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「ケイト・トムソンと片桐宏典」 彫刻展

2011年

会期 13th January - 3rd February 2011
会場 HART Gallery, 113 Upper Street, Islington, London N1 1QN

ケイト・トムソンと片桐宏典

ダグラス・ホール

これは今日の美術界における、おそらく最も注目すべき彫刻家カップルのロンドンでの初めての展覧会である。しかもこの二人は、現代美術ではそう多くない、石彫を専門とする作家であるという点においても、稀有なデュオといえるだろう。これまでに二人展という形で、いつも好んで一緒に作品を発表してきているが、本展においても、両者の作品が互いに見事なバランスを保ち、補完し合っているのが改めて強く印象に残る。しかしまずは、この現代彫刻のマスターたちを正当に評価するためにも、個々の作家として、見ていかなければならないだろう。二人は、彫刻家としての自己追究の過程で、幸運な偶然によって地球の反対側から巡り会った。北日本出身の片桐は、1980年代半ばにアバディーンシャーのスコティッシュ・スカルプチャー・ワークショップで制作するためにスコットランドにやって来た。一方、エジンバラで育ったトムソンはその頃、コミュニティ・アートやパブリック・コミッションを通して彫刻の普及促進に積極的に関わっていた。こうして出会った二人の興味・関心と経歴は多くの点で重なり合っていくことになる。1991年、トムソンと片桐は結婚して日本に拠点を構える。その後、片桐は2001年に2回イギリスで個展を開いているが、トムソンが再びイギリスで作品を発表するのは2009年のことになる。

日本という環境は、スコットランドからやって来た彫刻家に豊かな活動の機会を与える場となった。トムソンは日本での最初の10年間に、15点にも及ぶパブリック・コミッションを制作するかたわら、数多くの展覧会にも出品している。トムソンと片桐はまた、アート・プロジェクトのマネージメントに関しても類い希なる力量を発揮し、スコットランドを始め日本でも、幾つものアート関連イベントを企画、プロデュースし、オルガナイザーやアドヴァイザーとして活躍している。トムソンが日本の美術界に溶け込んで活躍の場を見出していったのも、このような企画活動を通してであった。さらにトムソンは美術批評家としても才能を発揮し、日本の英字新聞に寄稿するようになる。彼らの日本における名声と評価は、そのまま国際舞台へのパスポートでもあった。2007年、彼らは日本を後にしてスコットランドに移り住む。しかし、これによって二人の野心的な制作活動にブレーキがかかったわけではない。それは、現在も二人が日本で手がけているパブリック・コミッションを見れば一目瞭然である。とはいっても、二人の当面の制作の場、エジンバラの小さなアトリエは、日本の広大な制作スペースにはるかに及ばないものであり、そこで大型作品の制作は難しいかもしれない。

トムソンと片桐の渡英は、2009年、2010年にスコットランドで開催された二人展によって、世の人々に記憶されるところとなった。これが、すでに国際的によく知られている作家の作品を目にする最初の機会だということにロンドンの美術界は驚きを禁じ得ないかもしれない。2010年にエジンバラのスコティッシュ・ギャラリーでの展覧会では、二人は比較的小さな作品を展示した。2009年の二つのシリーズの展覧会は、いずれも建築空間と共鳴する形で、主に屋外に作品が展示されたが、それは日本でパブリック・スペースに設置する作品が持つスケールと空間の広がりを彷彿させるものであった。この二つの展覧会、ボーダーズ州のアダムズ設計のメラーステイン・ハウス、そして続いてグラスゴー近郊のC.R.マッキントッシュ設計のヒル・ハウスで行われた展覧会は、「詩的抽象」というタイトルを冠して開催された。

このタイトルこそ、この素晴らしいカップルがそれぞれが独自性を主張しながらも、二人で世界へ飛び出す覚悟を示すものであった。この言葉を自分たちの作品にふさわしいタイトルとして選ぶことで、二人は、自らを現代彫刻の中の最も古典的な位置に据えたといえるだろう。当然のことながら、彼らがここに到達したのは、それぞれ日本とヨーロッパの伝統という、全く異なる道を辿った末のことである。英国で美術教育を受けたトムソンはブランクーシ、そして日系アメリカ人イサム・ノグチを敬愛し私淑していた。片桐のアーティストとしての自己形成には、当然、異なる影響が見いだされる。日本には永く、造園に石を使う伝統があった。しかし、現代の芸術作品としての石彫は戦後になってから発展したものであり、おそらく1960年代に始まり、1980年代になって一気に様々な作家による彫刻が花開いた。「彫刻シンポジウム」という試みが各地で広く行われるようになったのは、まさにこの頃のことである。

イギリスでは、彫刻公園やワークショップが数を増やしていった一方で、この「国際彫刻シンポジウム運動」に関しては、その規模も範囲もほとんど知られていない。「彫刻シンポジウム」がオーストリアで初めて開催されたのは1959年と古く、当地では現在も盛んに行われているが、最も豊かな形で発展を遂げたのは日本においてであり、ヨーロッパの他諸国もアメリカもこれには及ばない。意外かも知れないが、トムソンと片桐は二人ともこの「彫刻シンポジウム」に深く携わっていた。トムソンは日本に移住する以前から、グラスゴー・スカルプチャー・スタジオの創設ディレクターをとして、やや小規模ながらシンポジウムと似たプロジェクトを組織した。片桐のシンポジウムとの関わりは1970年代に始まり、1981年、オーストリアのリンダブルン国際彫刻シンポジウムに招かれ、さらに後年、同シンポジウムのアシスタント・オルガナイザーに就任した。現在も続くリンダブルン・シンポジウムに片桐は今も深く関わっている。

「詩的抽象」という言葉は、1960年代のヨーロッパ、ある画家たちのグループを描写するのに最初に使われた用語である。その画家たちはベン・ニコルソンやヴィクトル・ヴァザレリがそれぞれの手法で描いたような、幾何学的で構成的な抽象画を拒否しながら、写実的表現に戻ることもしなかった。彼らは自分たちの抽象的形式に豊かな表現力、情緒性を持たせることを欲し、手や絵筆のどんな微妙な動きも瞬時に作品に反映されることを求めたのだ。これを彫刻で行おうとすると、はるかに難題となる。彫刻家の手の動きは、絵筆を握る画家の手のように直裁的には作品に形となって表れないからだ。しかし原理は同じである。すなわち、彫られた形は表情に富んだものでなければならず、建築や機械のような無機的ではなく有機的なもの、人間の身体や心と感情を表現しなくてはならない。散文的ではなく詩的なものを創らなくてはならないのだ。「詩的」という言葉は、少なくとも現代人にとっては、美の表現への欲求を意味するものだ。このような資質を備えた抽象的彫刻は、西洋ではブランクーシ以来、驚くほど稀なものであった。

日本には、西洋で一般に理解されている意味での「モダニズム」の伝統がなかった。二つの世界大戦から、あるいは驚くべきことに、その後もずっとである。美術学校はそれぞれの伝統に従って運営され、「モダニズム」は推進すべき理想でも、否定すべきものでもなかった。片桐が受けた教育はもっぱら技術の熟練に力点を置くもので、観念やイデオロギー的なものではなかった。これはむしろ幸運なことだったかもしれない。しかし、根本的な問題として、日本であれイギリスであれ、彫刻家としての一歩を踏み出さんとする者は、いやでも「感性」の問題に関する選択を強いられるものだ。筆者には、ごく初期の段階ですでに、二人が出会う以前から、片桐の芸術家としての方向性がトムソンのそれに似ていたと思えてならない。大学の美術科を卒業し、一人前に成熟した1980年代、片桐はまるで生まれ変わったように、石を使って目覚ましい制作活動を展開し始める。その活動のおもな舞台は、すでに述べたシンポジウムやパブリック・プロジェクトなど複数のアーティストが関わるものだった。聞くところによれば、このようなプロジェクトが各地で行われた結果、日本には膨大な数の石彫作品があり、特に大型のものが多いのだと言う。片桐が彼独自の作品スタイルを確立し、トムソンが1989年以降に参加し制作したのは、このような状況下においてであった。それは必ずしも繊細な表現を育てる環境ではなかったが、周囲の大仰で過度な表現に走りがちな作品の中にあって、片桐、トムソンの二人は視覚的にも優美で正確、抑制の効いた表現を身につけていった。二人は、それぞれの個性が命じるままに、独自の方法でそれを成し遂げていく。片桐は、石切り場から切り出したままのラフな自然な石の肌合いを好み、トムソンはむしろ石の荒々しさを抑えて、精緻な形体的構造と複雑な視覚的効果を醸し出すという、自らの目的に素材を添わせることに集中する。それは時に、素材を極限まで追い詰めることにもなる。

今回の展覧会では、スコットランドに移住して以来、彼らの制作の中心を占めて来た、比較的小規模な(ポータブルな!)作品を展示している。この程度のスケールの作品では、二人の作風の違いはある意味で目立たなくなり、むしろ相補的な面が際立ってくる。とりわけ、片桐が玄武岩や黒御影石を、トムソンはカラーラの大理石やオニックスを好んで使うのを見れば、二人の作品を男と女という観点で捉えるという誘惑は抑えがたいかもしれない。しかし、より感覚的で鋭利な表現の片桐に対して、トムソンは入念に計算された空間概念により、慎重で控えめな、抑制された感じさえ抱かせる表現をとる。トムソンは空間を、本人の言葉を借りれば「人生のための劇場」として捉えており、彼女にとって空間は何より重要な要素なのである。一方、片桐の作品の場合、マッスやボリュームの方がさらに重要ということになるだろう。

現在の作品のスケールが控えめだからといって、二人のこれまでの業績が軽視されることがあってはならない。願わくは、彼らの日本における制作の足跡を、この展覧会でも見る機会が与えられることを期待したい。それによって、これまでの経歴に関しては簡略すぎる印象のある本展にあっても、二人の作家としての制作の起源、出発点が確認できるはずだ。そして、ケイト・トムソンがその大胆さにおいて夫に一歩も譲らないということ、それは片桐の国、日本の、ヨーロッパとは全く異なる文化的風土からすると、とても素晴らしいことだということも分かるだろう。

さて、トムソンと片桐は英国現代美術という文脈において、いかなる位置に立っているのだろう?彼らが日本で過ごした20年間は、幸運にも二人を、その時代にロンドンのアートシーンを覆っていた、流行に翻弄される風潮とは無縁なものにしてくれた。とはいっても、二人とも新しい素材、例えば人工的な光や音のような素材を退けるものではないが、そういうものを流行に迎合して作品に採用したことは一度もない。彼らの作品の精髄、本質は素材と一体化してあるのだ。それはヘンリー・ムーアやバーバラ・ヘップワースにとって素材が意味するところと全く変わらない。人によっては、このような姿勢を反動的、あるいは退行的であると言うかも知れない。しかし、この二人が、昨今の西洋美術界のお祭り騒ぎ的状況から遠ざかっていた長い時間を考えると、むしろ、彼らをポスト・モダニストと定義すべきだろう。西洋美術史における「現代的美術」に振り回されずに済んだ作家として。余計なイデオロギー色も、流行というお荷物も背負わず、純粋な芸術作品としてそこにある。彫刻というものが本来持っていた基本的なクォリティを思い出させる、健全なものとしてそこにあるのだ。作家として、これほどにクールなことがあるだろうか。(翻訳:山本勢津子)

*ダグラス・ホール OBE BA FMA:スコットランド国立近代美術館初代館長(1961-86) 。美術評論家および著作家